Blog (Before- & Afterimages)
ほぼ脱稿。図版選定を終える。

『ジルベール・クラヴェル──冥府の建築家』(仮)



目次

I. メタモルフォーゼ
第一章 死の舞踏(1902〜07年)
  骸【ルビ:むくろ】としての肉体
  「教会開基祭における死」
  「死の表現に関するノート」
  『中欧月刊誌』の創刊と挫折
  イタリアへ

第二章 放蕩者たちの島(1907〜11年)
  カプリ島滞在の開始
  フェルセン伯爵とヴィラ・リュシス
  ミトラス教の祭儀
  アフリカ、アーシア

アーシア断章──日記と手紙から

第三章 オリエントへ(1911〜14年)
  病の哲学、ポンペイ、そして、エジプトへ
  エジプト旅行
  「わが領土」への帰還
  エジプト再訪1
  エジプト再訪2

II. アヴァンギャルド
第四章 エキセントリック(1914〜17年)
  世界大戦下イタリアのアウトサイダー
  『自殺協会』

第五章 未来派(1917〜18年)
  バレエ・リュスの衝撃、デペロとの出会い
  イタリア語版『自殺協会』
  「造形的バレエ」の上演

第六章 メタフィジカ(1918〜20年)
  『造形的価値』への寄稿1──「ピカソとキュビスム」
  ロベルト・ロンギによる展評
  『造形的価値』への寄稿2──「造形的演劇」
  『造形的価値』への寄稿3──「エジプトの表現」

III. ミステリウム
第七章 塔と洞窟(1920〜23年)
  セイレーンの群島
  「欠けたピラミッド」の改修
  カプリ島景観会議
  洞窟住居の着工
  洞窟住居の拡張

第八章 友と敵(1923〜25年)
  フェルセンの死    
  家宅捜索の顚末
  大地の暴力のもとで
  「世界で最も奇妙な家」
  友人たちの来訪

第九章 睾丸と卵(1925〜27年)
  巨大洞窟の発見
  「岩石妄想」
  ダイモーンに駆られて
  肉体と建築の複視
  最後の手紙
  卵母セイレーン
  半陰陽の空間
  死シテノチ(postmortem)
  二つの鍵



ジルベール・クラヴェル年表
「幻視のスイス」展カタログ所収の書簡一覧
書誌
図版一覧
人名索引
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シンポジウム「アビ・ヴァールブルクの宇宙 MVNDVS WARBVRGIANVS──『ムネモシュネ・アトラス』をめぐって」

「ペルセウスの行方――スキファノイア宮からアトラスへ」 伊藤博明(埼玉大)
「動的生のなかの古代――パネル34をめぐって」 加藤哲弘(関西学院大)
「『ムネモシュネ・アトラス』の通時態と共時態」 田中純(東京大)
 コメンテーター:足達薫(弘前大)/上村清雄(千葉大)
         木村三郎(日本大)/三中信宏(農業環境技術研究所)

アビ・ヴァールブルク/伊藤博明/加藤哲弘/田中純 著
『ムネモシュネ・アトラス』(ありな書房、2012年3月刊)

2012年6月30日(土)14:00〜18:00 開場13:30
東京大学駒場キャンパス学際交流ホール(アドミニストレーション棟3F)


共著『ムネモシュネ・アトラス』(ありな書房)が完成し、すでに購入者の方々のお手元に届いているようです(わたし自身は在外のため、まだ現物を手にしておりません)。

感謝を捧げるべき方々があまりに多いこともあり、共著者全体の名のもとでの「あとがき」は簡潔なものにとどまっているため、本書を制作する過程でわたしが個人的に直接・間接にお世話になった日本国内の方々には、この場で謝意を表します。

なかでもとりわけ、東京大学大学院で2006年度に開講した表象技術論演習の参加者であった皆さんには深い感謝を捧げます。このゼミナールでは、グループリーダーの小澤京子さんと坂口さやかさんのほか、荒川徹君、金子美環さん、指田菜穂子さん、田原文子さん、茅野大樹君、富山由起子さん、中井悠君とともに、わたしが担当したパネルの図版関連情報を集中的に確認し、図版配置やそのテーマについて有意義な議論を行なうことができました。ありがとうございます。

『ムネモシュネ・アトラス』完成

自宅に届きました。

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シンポジウム「アビ・ヴァールブルクの宇宙──『ムネモシュネ・アトラス』をめぐって」

2012年6月30日(土)14~18時
東京大学駒場キャンパス・学際交流ホール(アドミニストレーション棟3階
パネリスト:伊藤博明、加藤哲弘、田中純
コメンテイター:足達薫、上村清雄、木村三郎、三中信宏
司会:伊藤博明

3月末に刊行される『ムネモシュネ・アトラス』(ありな書房)の著者たちが、特徴的ないくつかのパネルないし「ムネモシュネ・アトラス」の全体構造について、さらにあらたな観点から解説を加え、コメンテイターと討議します。

※会場に来なければ見られない「仕掛け」を作るつもりです。乞うご期待。(田中)

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昨年11月にドイツで見たときの感想をまとめておく。

ヘルツォークのCave of Forgotten Dreamsを観る。地味だけど3Dで観る価値はあるのでは? 洞窟壁画の映像は素晴らしい。とくにバイソンと女性の下半身が重ねて描かれた突起物など。Postscriptで一ひねりがある。ショーヴェ洞窟から遠くない原発で、蒸気熱によって熱帯の温室を作り、ワニを繁殖させているという話。とくにアルビノの双子のワニとイメージの分身性をめぐる考察が興味深い。

このPostscriptに登場するワニが気になったので調べてみると、トリカスタン(Tricastin)原発の熱水を利用したクロコダイル・ファーム(La Ferme aux crocodiles)とようやく判明する。しかし、ヘルツォークの映画では原発近くのワニ園だからアルビノが生まれたような印象を与える作りになっていたような・・・。 映画にはアルビノの双子アリゲーターが登場するのだが、これについては「希少な白いワニ、欧州で初めて公開 フランス」という2010年2月の記事がある。これによると「アルビノ・アリゲーター」は米ルイジアナ(Louisiana)の動物園のものだという。

ドイツ語のナレーションやクレジットを十分把握していない可能性があるので断言はできないが、本編に比べてPostscriptはちょっと情報の提供の仕方が曖昧だったようには思う。評を見ると「Postscriptは不要」「意味がわからない」といったものが多い。しかし、問題はあるにせよ、刺激はされた。約3万2000年前の動物壁画が眠る洞窟と原発の冷却炉、さらに熱帯ワニ園との予想外の結合にはショックがあった。太古と現在、未来的なものとの多重化。数万年前の回帰とも未曾有の未来に向かうとも思える、人間の歴史の果ての自然史のイメージ。

同じ疑問をもつ人はすでにいた。Herzog's "Ecstatic Truth": Are Those Alligators Really Radioactive Mutants?   これによると、"Werner Herzog's conclusion may be ecstatically true, but it's empirically false. " この点について、ヘルツォークは「Ecstatic Truth」と言っているらしい(参照)。このスピーチにはなんと偽ロンギノスの崇高論が出てくる。なるほど、アルビノのワニの前には、『バッド・ルーテナント』 のイグアナという伏線があったのか・・・。洞窟映画のPostscriptはもはや事実の記録ではなく、崇高で「エクスタティックな真理」の表現だ、ということなのだろう。その意味ではフィクションなのである。

ところで、イグアナからアリゲーターにいたる原点は盟友クラウス・キンスキーにあったのではなかろうか。そういえばナスターシャも蛇女である。

『ムネモシュネ・アトラス』内容紹介

先日ご案内した通りですが、内容の一部を含むPDFが出来ましたので、公開します。

『ムネモシュネ・アトラス』内容紹介


『UP』3月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第27回です。
書誌情報は
田中純「世界模型のかけら──「思考のイメージ」としてのダイアグラム」、『UP』473号(2012年3月号)、東京大学出版会、2012年、55〜61頁。

そんなイメージたち──
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『ムネモシュネ・アトラス』近刊

アビ・ヴァールブルク、伊藤博明、加藤哲弘、田中純『ムネモシュネ・アトラス』、ありな書房、2012年、総ページ数768ページ、B5版、定価24000円。3月30日刊行予定。
内容を紹介したPDFファイルを公開します→
ムネモシュネ内容紹介


黒いスクリーンのパネル上に図像を多数配置することで、ヨーロッパにおけるイメージ記憶の地層を探索したアビ・ヴァールブルク最晩年のプロジェクトについて、写真による記録として残された最終ヴァージョン63枚を、網羅的かつ統一的な方針のもと、徹底的に読み解いた解説書。オリジナルな解題2種類のほか、詳細な人名・事項索引付き。パネルの写真はもとより、参考図版を多数収録。

構成(カッコ内は担当者):
序(伊藤)
最終ヴァージョン63枚のパネル解説(伊藤・加藤・田中)
ヴァールブルクによる序論(加藤訳)
序論解説(田中)
解題(田中)「ヴァールブルクの天球へ(AD SPHAERAM WARBURGIANAM)──『ムネモシュネ・アトラス』の多層的分析」
解題(伊藤)「不在のペルセウス(Perso inesistente)──『ムネモシュネ・アトラス』と占星術」
文献一覧(伊藤)
索引(伊藤)

最終ヴァージョン63枚の画像
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講師は4人、鈴木了二、七里圭、冨永昌敬、中谷礼仁の各氏。二人の映画監督の作品は面白そうだ。一時帰国を鈴木、中谷両氏にお知らせしておらず、サプライズを意図したため、正体を見破られないように、マスクをしたまま、うつむいてメモを取る。

主題は鈴木氏の作品を七里氏が撮影した《物質試行52:DUBHOUSE》、および1992年の作品《物質試行35:空地 空洞 空隙》。残念ながら、今回の映画祭で観る機会を逸してしまった。以下はやや順不同な印象記。

「映画を撮るときに建築のことは考えない、結果として映り込むもの」という冨永氏の言葉が印象的。つまり、建築は映画において最も意識されないもの、映画の無意識なのかもしれない。それがある場合には反転して、無意識がスクリーン全体を覆う。それが鈴木氏の言う「建築映画」だろう。極めつきの建築映画としての『ドイツ零年』。

冨永氏はナイーヴに語っているように見えて、かなり本質的なことを言っていた。鈴木氏の作品を七里氏が撮影した映画について、人が出てこないけれど、これは一種の劇映画だ、と言う。あとでそれを、鈴木氏の建築はそこで映画のセットになっていたと言い換えていた。これは重要。つま り、ドラマ=出来事が起こる、起こりそうな、あるいは起こってしまった場であるということ。さらに縮尺の曖昧さによる実物と模型の区別の困難さ。このセッ トに登場する人物はいったいどんな大きさかなのか。アアルトの「小さい人間」の話を思い出す。

七里氏の語りは非常に明晰。映画と鈴木氏のDUBの親和性や、物質試行51が光のショーを展開していたがゆえに52の映画が構想された という話は、一面ではもちろん了二建築の本質に根ざすのだが、しかし、このあまりの親和性は同時に危険性でもあるだろう。映画=建築の自家中毒。その点で 物質試行53で鈴木氏がこの親和性を裏切り、七里氏がその事態に気づいていたこともまた、この二人の深い認識を示している。

鈴木氏の自作解説。映画のロケに使われたアパートは「建築」だが、いわゆる(建物ではない)建築は「建築」ではない、という視点の逆転。この場合、カッコ付きの「建築」とは映画と同義なのだ。俗に言う「いい建築」を映画に撮っても「建築」は写らない。つまり、イメージにならない。逆に、アパート を撮影しても「建築」は写りうる。つまり、イメージになりうる。この逆転の感覚が鈴木氏の建築の基盤なのだが、ここにも同じ陥穽があって、では、あらかじめ映画になるような「建築」を建てるとは、いったい何を目的とした営みなのか、という素朴な問いが残される。

詳しく書き出すときりがない。あとはキーワードのみ。鈴木氏のフィガロ・プロジェクトという謎のプロジェクトの話。ここから俄然Ryojiワー ルドに入り込み、ピラネージ、ブレ、ルドゥといった革命建築の話題から、53に関係するテラーニのダンテウムへ。 3つのF──Fukushima, Film, Figaro。そして、モーツァルトのFigaroとブレの霊廟建築との同時代性──つまりは、革命における「新しい人間」と「新しい建築」との同期性。

注目すべきはここで七里氏が二番目のFに言及し、物質試行53はすでにFilmでは撮影できないのではないか、と語ったこと。そうかもしれない。鈴木氏がかつて書いたように、映画が亡霊の時間、すべてが終わったあとの時間だとして、彼の建てるセットはすでに、その映画のさらにあとの時間へ向かっているのかもしれない。亡霊たちすら立ち去ったあとの空間、セット──そこに登場するのはいったい誰なのか?

ということを最後に質問。実は、映像メインの集まりなのだから、映像を見ていない自分にはあまり質問する気はなかった。だが、他に質問者もいないよ うなので挙手。おもむろにマスクをとって顔を見せて、中谷氏と鈴木氏を驚かせ、してやったり(今日の目論見達成)。ダンテウムでは天国のホールを抜けると帝国の間があり、その突き当たりにはMの字を具象化した巨大な鷲の紋章が配置されていたはず。これはムッソリーニのMを暗示し、「新しい人間」としてのファシストの象徴であろう。
とすると、映画の終わったあとのポスト映画のセットである53、この新たな「建屋」に登場する人間ないし人間ならざる者とはいったい誰なのか? 鈴木氏は「革命家」にほかならず、DUBとは革命であろうが、その革命の舞台の登場人物とは誰なのか? つまり、Figaroとは、今、誰なのか? 

鈴木氏はこれに対して、例えば七里氏と二人で対座する際、二人の間にマルグリット・デュラスのための場所を空けておくといった行為の例を出し、さらにハンナ・アレントが引用している、「自由」をめぐるルネ・シャールの詩に言及することで、いわばこのセットそのものが「自由」の場所として空いているのだ、と答えたように思う。リベルテ。革命の理念。

鈴木氏は自作(解体される模型)の映像を残す理由について問われたもうひとつの質問に応えて、「喪われたのちにこそ顕われるもの」について語った。「喪われたのちにこそ顕われるもの」とは復活かそれとも幽霊か。 マタイ受難曲が話題になっていたが、それが復活であるならば、カトリシズム的に理解されたゴダール的な映画の希望にとどまるだろう。では、鈴木氏がかつて語っていたようにそれは幽霊か。いや、すでに物質試行53──ということは鈴木了二の視点で理解されたテラーニ──はさらにその先に行こうとしているのではないか。いまだありえなかった回帰、ありえなかったものの到来。自由の到来という真の革命の理念。

質問に応える際に鈴木氏が触れたように、自分の問題提起はやや「ストーリー」を強引に作りすぎたものであったかもしれない。だから、これもまた深読みかもしれないが、鈴木了二という「革命家」の言葉と模型によるアジテーションに触発された妄想としてでも書き留めておきたい。とはいえ、18世紀末の革命建築が言及され、ほかならぬテラーニ──「革命」としてのファシズムの純粋きわまりなき追求者──が召還された場において、3.11以後の現在、その「現場」の「建屋」に登場するFigaroとは誰なのか、という問いは、おのずと生じてしかるべきものだったはずだ。──いずれにせよ、フィガロ・プロジェクトという謎の「陰謀」(?)の行方を刮目して待ちたい。
 
シンポジウム終了後、物質試行53の内部を見せてもらうこともでき、迫力ある「建屋」の図面各種も実見できた。逆パースによる----未来を一挙に手元に引き寄せた──革命の時間性(あるいは最後の審判をめぐる黙示録的時間性)の表現。

追記:
鈴木氏が言及したハンナ・アーレント『過去と未来のあいだ』序文に引かれた、詩人ルネ・シャールの言葉。

「われわれが一緒に食事をとるたびに、自由は食席に招かれている。椅子は空いたままだが席はもうけてある。」(À tous les repas pris en commun, nous invitons la liberté à s'asseoir. La place demeure vide mais le couvert reste mis. )
──『ヒュプノスの綴り(Feuillets d'Hypnos)』(1946年)より。

このアフォリズムのかたちをとった詩的断章集は、シャールがレジスタンス運動に加わっていた1943〜44年に書かれている。ちなみにヒュプノスとはギリシア神話の「眠り」の神である。
昨日届いた『思想』のフリードリヒ・キットラー追悼特集。3人の日本人研究者による追悼文のほか、キットラー自身によるニクラス・ルーマンの追悼文「ベルリン動物園は、一体まだあるのかね?」を所収。キットラーのテクストは含みが多くて難解だが、いろいろ考えさせられる。タイトルは「ベルリン動物園」駅でのキットラーとルーマンとの会話のなかで、ルーマンが尋ねた言葉、「それはまだあるのか」と。「一体」と訳されているeigentlichのニュアンスは「そもそも」だから、「ベルリン動物園」駅に二人していながら、「そもそも」「ベルリン動物園」などというものはまだあるのだろうか、と。存在と無のあいだで宙吊りにされる場所の名前。

この追悼文は、ルーマンをめぐるいくつもの小さな物語(この場合、キットラーの聴き取ったオーラル・ヒストリー)から織りなされた、きわめて巧みな語りの産物と言えるだろう。虚々実々なその語りのなかに、同時代知識人たちの姿が立ち現われては消え、たとえばハーバーマスやズーアカンプ社への遠回しの揶揄が織り込まれる。物語作者としてのキットラー。訳者である旧友・大宮勘一郎氏がいかにも好みそうなテクストでもある。優れたベンヤミン論の書き手である大宮氏がとりわけ好んでいた「物語作者」の一節(ヘロドトスが語る敗残のエジプト王プサンメニトスの話)を思い出す。ベンヤミンは「物語」なるものを、遠い歳月ののちにも発芽し生長しうる、ピラミッドの密室内の穀物の種子に譬えた。ベンヤミンの言葉を引こう──

「情報は、それがまだ新しい短い瞬間に、その報酬を受けとってしまっている。情報はただこの瞬間にのみ生き、自己を完全にこの瞬間にゆだね、時をおかずに説明されねばならない。物語はまったく違う。物語は消耗しつくされることがない。自己の力を集めて蓄えておき、長時間ののちにもまだ展開することが可能なのだ。」(高木久雄・佐藤康彦訳)

そして、このとき、ある直感が訪れる。──追悼が死者を不滅のものとする営みであるならば、追悼文は幾度も再生する「ピラミッドの密室内の穀物の種子」としての「物語」を孕むのではないか。ルーマンはキットラーの語る物語を通して、そんな種子としての「死後の生」を与えられたのだ。そして、今、キットラーもまた。
──不死なる者たちよ。

大宮氏はその追悼文の末尾で、キットラーの著書に献呈の日付を書き入れてもらった際の、ある錯誤行為の思い出を記している。キットラーはドイツ語の慣用である「日・月・年」の順で 8.5.1945 と書きこんだのである。これは、連合国に対するドイツの無条件降伏の日付だ。大宮氏がその錯誤行為を指摘すると、笑みを投げ返すと、事もなげに、/2001と書き足したという。8.5.1945/2001──彼の著書『書きこみのシステム1800/1900』を連想させるスラッシュ。「シボレート」(ツェラン/デリダ)としての日付。この日付は、ほとんど極小の姿となった、あの物語という種子ではなかろうか。大宮氏はその追悼文の末尾に、この物語の種子を反復し展開するようにして、こう記している。──(8.12.1941/2011)。

「シボレート(合言葉)」として書きつけられたこの極小の物語に、不死の者たちの世界へ立ち去ろうとする人に向けた、忘れがたい別れの身振りを見た。

ベルリン、シュプレー川、2012年2月4日

氷が溶けて割れ流れてゆく。

『職業としてのディレッタンティズム』

ベルリン文学・文化研究センターのシンポジウムで御用達のようにして本を売っていた出版社KADMOSのラインナップから、テーマが気になったので買った1冊、『職業としてのディレッタント』(ドイツ語原書)。
「ややアメリカ的な問い」という副題がついている。2010年6月8日にオスナブリュック大学で行なわれた講演の記録。

グンブレヒト氏は2007年に慶應大学で「大学の人文学に未来はあるか?」という講演をしており、記録が公開されている(PDF)。現代ドイツという文脈を離れた人文学の趨勢については、二つの講演は重なる部分が多い。
『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第26回です。
書誌情報は
田中純「鳥人間の影──ジルベール・クラヴェル『自殺協会』」、『UP』470号(2011年12月号)、東京大学出版会、2011年、59〜65頁。

『自殺協会』では、古代エジプトの霊魂観を背景とするこうしたアルカイックなシンボリズム、中世ヨーロッパの「死の舞踏」の虚無的なグロテスク、そして、この協会が位置する建物のエレベーターや開頭手術に使われる歯車装置といった機械のモダニズムなどが奇妙なかたちで融合している。現代的な合理性が古代的な想像力によって幻想的に、しかし極度に乾いた筆致で歪曲された『自殺協会』の世界には、カフカが『審判』で描き出した裁判所の官僚機構や『流刑地にて』の処刑機械を思い起こさせるものがある。自殺協会のシステムそのものが、ひとつの「独身者の機械」(ミシェル・カルージュ)をなしている、と言ってもよい。そして、クラヴェルはこの機械を、死を変容させることで生き延びるためにこそ必要とした。(...中略...)

このように『自殺協会』においては、古代エジプトの死生観をはじめとする神秘主義的な形而上学と世界大戦を風刺したアイロニカルな舞台設定、シュルレアリスムを先取りする幻想性とカフカを思わせる謎めいた寓話性、イタリア語の背後にドイツ語を潜ませた多重言語による、非常に古風でありながら前衛的な文体、そして、デペロによる挿絵や口絵の機械人形たちが跋扈する悪夢のような異世界のヴィジョンといった種々様々な要素が相乗的な効果を上げている。この「独身者の機械」は、イタリア語への翻訳を通じて多声化するとともに、新たな「技師」デペロの参加によって、テクストに従属しない視覚的イメージという強力なダイナモを備えることになったのである。

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Lessons of the Masters

高田康成氏による邦訳を読む。こなれた達意の訳。古代を中心に論じた第一章がとくに興味深い。刺激的だったのは、大学で知を商売にしているわれわれはソフィストの末裔ではないか、という趣旨の指摘だ。テクスト分析や引用といった手法のような体系的教育の習慣を始めたのはソフィストだった。知に対する対価というかたちで報酬を得たのも彼らである。

まさにソフィストの時代以来、哲学の大半は、大学に類する組織において、公の専門職の資格をもった人々によって「牛耳られて」おり、そしてこの哲学という仕事にたずさわる者が給料を期待し、また実際受け取ってしまっているために、われわれはこの職業に内在する興味深い問題[真理や知に対する謝礼をめぐる問題]を見過ごしてしまっている。

こうした組織に対する反抗者がショーペンハウアー、ニーチェであり、ウィトゲンシュタインもこの状況を胡散臭いものと見なし、スピノザも距離を置いた。「真の師は、給与は雀の涙ながら、その精神性において托鉢修道僧に似るものとなる。(...中略...)さらに現実に即して言えば、ものを考え問いを発することを仕事とする教師は、天職とは直接的に関係のないしかたで、日々の生計を立てることになる。靴職人だったベーメ、レンズを磨いたスピノザ、困窮にあえいだパース、事務員だったカフカやウォレス・スティーヴンズ、作家だったサルトル・・・。

ソクラテスの教育はいわゆる教育の拒否であったという指摘。なぜなら「無知の知」へと対話者を導くのだから。それはウィトゲンシュタインにも通じる。彼らの「意図を理解した者は誰でも独習者になるのだ」。人の心のバランスを乱してやまず、理解したと思った瞬間に、その理解を砕くような「神話」や「喩え話」の比喩構造。

注目すべき一節──「地獄という名の幼稚園──幼児性とは地獄落ちの常態に等しい」(70頁)。とするならば、インファンスは地獄に堕ちている。パウル・クレーの《幼稚園=地獄の天使》。

ダンテとウェルギリウス、ファウスト博士をめぐる問題圏などにいたるまでの論述には緊張感を感じるのだが、それ以降(第三章後半のフッサールとハイデガーの師弟関係以降)はやや足早になってしまう。古今東西にわたる途轍もない教養がうかがわれることは確かだし、今日的状況への目配りもあって触発はされるのだが。講演を元にしていることに由来し、また、優れた翻訳の賜物でもある、淀みなく流麗な語り口そのものが、結果的には自分にとっての壁になる。スタイナー自身のこの「教え」はどのような「師」から継承され、どんな「弟子」に伝えられようとしているのかが見えない。それともこれは所詮、師弟関係とは関わりのない、顕教的な表向きの言説なのだろうか。

密儀(密教)と顕儀(顕教)の区別、および、前者は師から弟子へと口伝でしか伝えられないといった事態について、本書では何度か言及される。スタイナーの論述が旋回する核心となる、エロスの問題もまたそこに関わっている。それゆえ、この枠組み内部での口伝の重要性は疑いようもないが、しかし、師の教えがテクストというかたちで漂流し、まったく予想もしなかったところに弟子(私淑する者)を見出す可能性はつねに残されるだろう。「独学者」の存在がここに浮上してくる。

著者も触れているように、劃期的な発見はむしろ、師弟関係の外にいるディレッタントやアマチュアによってなされることが多い。創造的なひらめきという「狂気(マニア)」は教えられるものではない。師にできるのは、その直前まで弟子を導くこと──「無知の知」に直面させること──にとどまるだろう。

本書を読んで最後に想起したのは、『日本浪曼派批判序説』増補版「あとがき」(未來社、1965)で、ジョルジュ・ソレルの言葉「私は、私自身の教育のために役立ったノートを、若干の人々に提示する一人の autodidacte である」を引いて自分自身をも「autodidacte」、すなわち独学者と規定した橋川文三だった。鶴見俊輔はこう証言している。

あるときなんか、丸山さんの自宅を訪ねたら私の先客に橋川文三がいたね。そのとき丸山さんは、こういうふうに言うんだ。「これは橋川君。評論家だ」って。彼は「自分の弟子だ」とかは、けっして言わないんだ。──鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの──鶴見俊輔に戦後世代が聞く』(新曜社、2004)
ここに師弟関係はなかったと考えるべきなのだろうか。それとも双方の側からする別離があったと考えるべきなのだろうか。

ソフィストの末裔であることに甘んじるのでなければ、どんな場所からもアクセス可能な、知識の公然たる技術的世俗化が果てしなく進行しつつある状況下だからこそ、どのような形態の密儀が、隠者としての托鉢修道僧の住み処が、独学者の共同体が、今この時点で可能だろうか。
nachDenken. Internationale Wirkungsgeschichte der deutschsprachigen Geisteswissenschaften und ihrer Sprache

これもベルリン文学・文化研究センターのシンポジウム。3日間の日程だが、今日は行かないので、以下が備忘のためのメモ。非常に長文です。

都市を占う

高梨豊さんの写真集に解説を書きました。
書誌情報は
田中純「都市を占う」、高梨豊『IN'』、新宿書房、2011年、138〜141頁。
Jun Tanaka, Fortune-telling for Urban Cities. In: Yutaka Takanashi, IN'. Tokyo: Shinjuku Shobo, 2011, pp.142-144.

Internationaler Workshop: Neue Perspektiven der Warburg-Forschung
「ベルリン文学・文化研究センター(Zentrum für Literatur- und Kulturforschung Berlin)」主催のワークショップ。2011年11月25〜26日。
中心になっているMartin Treml氏は所長のSigrid Weigel女史とともにズーアカンプ社から一巻本のヴァールブルク著作アンソロジーを編纂・刊行している。
日本経済新聞夕刊(11月9日)で井上章一さんに書評していただきました。
平凡社の方が公開なさっている書評の画像です。

最後の一文、正確に意図を汲み取ってくださっている。拙著で問題にしたのは世紀転換期ヴィーンの「スタイル」──生と性、倫理と芸術を横断する──だったのだから、とくにロース/クラウスのスタイル=文体をどこかで意識していた。新書という雑誌に近い形式でなければ、そうはしなかったかもしれない。

その文体の特徴とは、ロースの創刊した雑誌名で言えば「他者(別のもの)」、つまり、異質性。ロースは「オーストリアへの西洋文化の導入のため」と言った。異質性をそれと知るためにはコンテクストの知識が必要だ。そもそも思想史は多領域の関係性をメタレベルで考察するものなのだから、そのために前提とされるコンテクストの理解も多重化する。しかし、いくつかの峰を越えて山を登った果てに見える風景──その地形──にこそ、思想史の醍醐味もまたあるというものだろう。

Website

Profile

田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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