Blog (Before- & Afterimages)
 BABYMETALはわたしにとって謎だった。
 ロックを聴いてきたとはいえ、ヘヴィメタルのファンでもなければ、いわゆるアイドルに興味も関心もなかった自分が、なぜBABYMETALのライヴ映像を繰り返し視聴し、SU-METALの歌声に忘れかけていたものを思い出させられたようにして、勇気づけられてしまうのか。
 理詰めで考えようとすればするほど、わからなかった。BABYMETALに対する評価に自分で確信がもてなかったのである。
 BABYMETALを聴いたときの「何かとんでもないことが起こりそうな予感」とでも呼べるような感覚は、以前であれば、故デヴィッド・ボウイをはじめとした、ロックのもっとも先端的な表現にのみ、感じてきたものだった。
 その「何か」をあの日、ネット上でたまたま見つけた「紅月-アカツキ-」のライヴ映像に感じ、演奏と歌の完成度の高さ、そして何よりもSU-METALの「声」にびっくりしてしまったのである。ただものではない、と。
 ちょうど先日亡くなり、残念なことに追悼文を書かなければならなくなったボウイについてずっと考え書いてもきた「ロックとは何か」という問いが、いまはこの歌姫を中心とするBABYMETALという存在によって、別のかたちで引き継がれているようにわたしは思った。だから、ここに書こうとするのは、そんな極私的な思いを背景にした、BABYMETALという、ふたたび見出された「ロックの幼年時代」をめぐる考察である。

 BABYMETALの活動は「メタルレジスタンス」と称されている。禁じられ失われていた「メタル」の魂を奪い返すための、某巨大勢力に対する聖戦という意味合いが、この「レジスタンス」の名には込められている。こうしたいわば「反体制」のカルト志向は、なかばはギミックであることを承知のうえでなお、カウンター・カルチャーとしてのロックをすり込まれた世代の「ロック幻想」に訴えかけずにはおかないだろう。
 現在のバックバンドである神バンドの力量が突出しており、その技術を引き出すようなソロ・パートを通して、これが正真正銘のメタルの音楽活動であることが強くアピールされている。だが、レジスタンスという「戦い」をもっとも鮮明に表わしているのが、SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの三人の少女であることは言うまでもない。彼女らのイメージは、「敵」が明確である点でも、その衣裳が赤と黒(とくに黒)を基調とするゴスロリ風の「鎧」を思わせる一種の戦闘服(それは制服のようにほとんど形態を変えない)である点からも、いわゆる「戦闘美少女」の極めつきのかたちと言っていいだろう。「Road of Resistance」冒頭の振り付けなど、まさに馬を駆る騎馬戦士の動きではないか。
 「戦闘美少女」というキャラクター類型については、柳田國男の「妹【ルビ:いも】の力」などを背景として、巫女のような霊力の存在が指摘されることが多い。SU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALが、メタルを司る神「キツネ様」によって三人の少女に降臨したメタルの使徒であるという設定は、これも言うまでもなく、「狐憑き」という巫女的なシャーマニズムへの連想にもとづいている。少女たちはシャーマンなのだ。
 これはおそらく現実にもそうなのであって、ステージ上での彼女たちのパフォーマンスの正確さとその肉体のタフさは尋常なものではなく、何かが乗り移っているとしか思えない。だとすれば、そのステージに少女たちの等身大の日常を反映したMCなど入る余地のないことは当然だろう。高度な技術をもったバックバンドによる大音量の攻撃的なサウンドを背にして、徹底的に作り込まれた虚構としてのレジスタンス戦士を歌とダンスによってこのうえない精度で演じきってはじめて、シャーマニズム的なパフォーマンスは完成する。「戦闘美少女」には「救済」のテーマがつきものだけれど、BABYMETALの場合、「メタルの、ロックの〈救い〉は美少女から来るのかもしれない」と思わず信じたい気持ちにさせられてしまうのだ。
 この「精度」と「演じきる」徹底性こそがきっと重要なのである。BABYMETALのパフォーマンスは、演じている自分を意識した「自己言及性」や素人臭いアマチュアリズムが聴衆に「身近さ」を感じさせる、といったポストモダンな「日常性の美学」や「近さの美学」とは無縁である(三人の少女のステージ上とステージを離れたときとのギャップを慈しむことは、また、別の問題である)。SU-METALの歌やYUIMETAL、MOAMETALのダンスが、神バンドの演奏と拮抗して優にそれらをリードするプロフェッショナルなものであることは、偏見なしに視聴さえすれば、あまりにも明らかだろう。
 とくにすべてを「ねじ伏せる」説得力をもっているのはSU-METALのヴォーカルである。やたらに技巧的な「上手い」歌い方ではなく、それゆえ通常の意味で「表現力」があるとも思わないけれど、彼女の声は突き抜けていて揺るぎがない。それは「鼻腔共鳴」で50音をすべて均一に鳴らすことができる、抜きん出た声だという説もある(http://wanko-metal.seesaa.net/article/418422717.html参照)。
 バックバンドの強烈なサウンドすらもねじ伏せるその響きの力は、わたしがかつてボウイの声に聴き取ったものであり、ロックに託していた、何ものかへの「レジスタンス」の「夢」を感じさせてくれる歌声なのである。そう自覚した以上、わたし自身、「確信がもてない」などと尻込みしている場合ではなかった。「前線」で闘っている少女たちは応援すべきだと悟ったのである。
 「紅月-アカツキ-」がX JAPANへのあからさまなオマージュであることをはじめとして、メタルやロックへのオマージュ的なフレーズに始まり、童謡や民謡、歌謡曲やポップスなどを幅広く参照した、ノスタルジア(懐かしさ)を喚起する要素がBABYMETALの楽曲にはある。ただ、それはたんなる回顧的反復ではなく、問題はそうしたノスタルジア喚起的な要素がどのように変換・演出されているか、というところにこそある。
 ハイブリッドなオーディオ・ヴィジュアル的要素の寄せ集めによって、年齢的・性的なバリア(「少女たちによるヘヴィメタ」という矛盾)をやすやすと越えてしまっている点は、ボウイに始まるポピュラー音楽の系譜でもある(その意味では、ボウイの生前にBABYMETALについての感想を是非聞いてみたかった)。アルバム『キモノ・マイ・ハウス』(1974年)など、ポップなセンスのハイブリッドなロックによって知られる米国のベテラン・バンド「スパークス」のロンとラッセルのメイル兄弟は、昨年(2015年)、BBCの番組でDJを務めたおり、BABYMETALの「ヘドバンギャー!!」を選曲し、「世界一のバンドだ」と紹介している。スパークスのどこか奇妙で妖しいポップな楽曲には、BABYMETALの「かわいさ」を体現するYUIMETAL、MOAMETAL二人を中心にした曲に通じる自由な感覚がたしかにあるように思う。
 このハイブリッド性を思えば、BABYMETALがメタルであるかどうかなどといった論争や批判など、まったくどうでもいいことである。「こんなものは本当のメタル、本当のロック、本当の音楽じゃない」と批判し、「際物」として排除することは、いままでも実験精神のあるミュージシャンたちに対してさんざん行なわれてきた、保守的な紋切り型に過ぎない。同様に、BABYMETALを細分化されたメタルのジャンルのひとつに押し込めようとすることも間違っている。細分化されすぎたジャンルの、その恣意的な区分のなかで本質論を展開することほどつまらないことはない。もちろん、メタル愛はあっていいのだが、ここではもっと大きな括りで、BABYMETALをロックの系譜のなかで考えたいのはそのためだ。
 アメリカ文学者の大和田俊之氏は「〈切なさ〉と〈かわいさ〉の政治学──PerfumeとBABYMETALに見るオリエンタリズム」という論文で、Perfume(BABYMETALと同じ事務所の先輩)がYMOの「テクノオリエンタリズム」を引用しつつ、「実現しなかった未来」を「切ない」ものとして表象している一方、BABYMETALにおけるヘヴィメタルへの「かわいさ」の注入は、時間を凍結させ、ノスタルジアを喚起しているという、興味深い指摘をしている。この指摘は、四方田犬彦氏が著書『「かわいい」論 』で、「かわいさ」をミニアチュール(小さいもの)と関連づけ、そこに無時間性やノスタルジアが宿る、と主張していることにもとづいている。
 「メタルを奪い返す」という「メタルレジスタンス」の物語自体が、失われた「メタル」へのノスタルジアに由来してはいないだろうか。わたし自身に引きつけて言えば、BABYMETALに託している最大のノスタルジアはたぶん、かつてロックが約束しているように思えた、何か革命のようなものへのノスタルジアなのだろう。大和田氏はこのノスタルジア効果を「かわいさ」の注入によるものと見たのだが、それをここではBABYMETALという名の「BABY」が表わす「幼年性」ととらえてみたい。
 BABYMETALの音楽を通して、わたしたち、かつてのロック・ファンが取り戻したいと願うのは、自分が失ってしまった「幼年性」としての、とても真摯な「おさなごころ」のようなものではないか。SU-METALの途方もなく「まっすぐな」声が神バンドの奏でる轟音を貫き、YUIMETAL、MOAMETALの一心不乱なダンスとシンクロしてその威力を何倍にも増すとき、そこに感じるのは、「ロックの幼年時代」とも言うべき、あらゆる可能性があったはずの未来の感覚である。「幾千もの夜を超えて/生き続ける愛があるから/この身体が滅びるまで/命が/消えるまで 守りつづけてゆく」──ボウイは「生き延びる」という意志がロックの本質だ、と語ったことがあるのだけれど、「紅月-アカツキ-」のこの歌詞を歌うSU-METALの声にわたしが直感したのは、そんな意志だったのかもしれない。
 BABYMETALの少女たちはMetallicaをはじめとする数多くのバンドと交流し、メタルという音楽を吸収して学んでいる。その継承のされ方自体が画期的ではないだろうか。BABYMETALをマーケット戦略にもとづく「商品」としてのみ見ることほど、貧しいとらえ方はないと思う。仕掛けは仕掛けとして、仕掛け人たちの思惑を超えてしまったものがたぶんそこにはある。少女たちとバックバンドのみならず、作詞・作曲陣や振り付けその他まで含めたトータルなチームとしてのBABYMETALであり、そのフロントを張っているSU-METAL、YUIMETAL、MOAMETALの三人の無限の可能性をわたしは信じたい。
 シンガーソングライターのロードは、まだ17歳くらいだった数年前にボウイと会い、彼から「君の音楽を聴いていると、明日を聴いているような気がする」という言葉をもらったという。SU-METALの歌声にはそんな「明日」がある。とても懐かしい明日が。
 だから、BABYMETALとは──もはや謎ではなく──ふたたび見出された「ロックの幼年性」であり、その「希望」なのである。
(『別冊カドカワ DIRECT 04 BABYMETAL』、KADOKAWA、2016年、52〜53頁。)

モンタージュ/パラタクシス(3)

『UP』9月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第45回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(3)──マックス・エルンスト《主の寝室》の「皮膚」について」、『UP』527号(2016年9月号)、東京大学出版会、2016年、55〜61頁。

装飾的総合芸術からアレゴリー的廃墟へ

共著に論文を寄稿しました。書誌情報は
田中純「装飾的総合芸術からアレゴリー的廃墟へ──アドルフ・ロースを通して見るウィーン文化の変容」、池田祐子編『ウィーン──総合芸術に宿る夢』、竹林舎、2016年、483〜504頁(総ページ数541頁)。
論文を寄稿しました。書誌情報は
田中純「義兄弟の肖像──『帝国の陰謀』とその周辺をめぐって」、工藤庸子編『論集 蓮實重彦』、羽鳥書店、2016年、46〜56頁。
報告文を書きました。
田中純「  川瀬敏郎氏(花人)講演会「日本の花─どうして私たちは花をいけてきたのか」」、「教養学部報」584号、東京大学教養学部、2016年、2頁。

Web版は

モンタージュ/パラタクシス(2)

『UP』6月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第44回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(2)──テオ・アンゲロプロスの映画における「空舞台」をめぐって」、『UP』524号(2016年6月号)、東京大学出版会、2016年、42〜49頁。
表象文化論学会の学会誌『表象』10号に掲載されています。
書誌情報は次の通り。
岡田温司+田中純「新たなるイメージ研究へ」、『表象』10号、表象文化論学会編・発行、月曜社、2016年、13〜66頁。

『過去に触れる』の内容解説もかなり話しています。
人名索引で拾った項目の一覧(50音順)です。書籍所収の最終版ではなく、校正段階のヴァージョンです。内容の手がかりとして公開します。


『過去に触れる』詳細目次

章の下の節タイトルまで含む詳細な目次です。
『みすず』読書アンケートに寄せた文章をもとにしたものです。すでに公開したリスト掲載の書籍についてのコメントの別ヴァージョンのほか、洋書も含みます。
コメントを付けました。日本語の書籍で比較的容易に入手できるもの(一部絶版あり)に限定したリストです。

1. 堀田善衞『方丈記私記』,ちくま文庫,1988.
大空襲により焼け野原と化した東京に方丈記の世界が重ね合わせられる。東日本大震災直後に改めて手に取り、「過去に触れる」歴史経験を叙述する「私記」という方法を学んだ書。
2. 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』,青土社,2001;新装版,2011.
「イメージの歴史家」ヴァールブルクはみずからを、過去からの波動を感知する「地震計」に譬えた。歴史経験のひとつの極限的なかたちがそこにある。一時は狂気にまでいたったその「地震計」の一生をたどった評伝。
3. 田中純『冥府の建築家----ジルベール・クラヴェル伝』,みすず書房,2012.
南イタリア、アマルフィ海岸のポジターノに異様な巌窟住居を築き上げたせむしの作家クラヴェルをめぐる世界初の評伝。謎の恋人「アーシア」に宛てた手紙や日記から構成した「アーシア断章」を含む。『過去に触れる』では、アーシアが誰であったのかを突き止め、その肖像写真を眼にするにいたるまでの探索過程を描いた。
4. 中島岳志編『橋川文三セレクション』,岩波書店,2011.
重要な論考「歴史意識の問題」のほか、「乃木伝説の思想」などを所収。とくに「太宰治の顔」をはじめとする回想には、橋川による歴史経験の「質」が垣間見える。
5. 宮嶋繁明『橋川文三 日本浪曼派の精神』,弦書房,2014.
『日本浪曼派批判序説』刊行(1960年)にいたるまでの若き橋川の精神形成を、貴重な資料にもとづき、克明に追跡した評伝。この書物でも触れられている弟・敏男(筆名・荒川厳夫)の詩集『百舌』については、『過去に触れる』の註でその詩を紹介している。
6. ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお----アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』,橋本一径訳,平凡社,2006.
アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所でユダヤ人特別労務班の一員によって撮影された写真をめぐる詳細な分析と、映画『ショア』の監督クロード・ランズマンらとの論争の書。『過去に触れる』では、この書物に寄せた解説を発展させ、論争をめぐる蓮實重彦の指摘に応える補論を付した。
7. 『photographers' gallery press』no.12「爆心地の写真 1945-1952」,photographers' gallery,2014.
広島への原爆投下当日に松重美人が撮影した写真をめぐる座談会のほか、爆心地の視覚表象に関する数々の討議・論考によって構成された特集号。とりわけ、倉石信乃「不鮮明について」は創見に満ちている。
8. W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』(改訳),鈴木仁子訳,白水社,2012.
『過去に触れる』のゼーバルト論が考察の中心とした作品。その表紙を飾るお小姓姿の少年の写真をはじめとする図版やテクストの細部からは、思いもかけぬ歴史的背景や文脈が見出されることになった。作家はそれを「因果律によっては究明できない連関」あるいは「漂流に似た何か」と呼んでいる。
9. W・G・ゼーバルト『カンポ・サント』,鈴木仁子訳,白水社,2011.
ゼーバルトの文学観を明かすきわめて重要な講演「復元のこころみ」を所収する散文集。この「復元」とは彼にとって、事実の記録や学問の彼方で、文学のみが果たすことのできる営みだった。
10. ロラン・バルト『明るい部屋----写真についての覚え書き』,花輪光訳,みすず書房,1985.
言わずとしれた写真論の古典にして、歴史経験のサスペンスに満ちたテクスト。この書物の核心にあって不在のイメージである幼い母の「温室の写真」を、バルトはじつは誰にでも見える──ただし、読み取れぬ──かたちで、アナモルフォーズとして提示していた。
11. 三浦哲哉『サスペンス映画史』,みすず書房,2012. 
サスペンス映画のなかでも劃期をなす作品・監督を取り上げることにより、理念としての「サスペンス」をくっきりと浮かび上がらせた書物。とくにそのクリント・イーストウッド論からは、歴史経験のサスペンスを論じるうえで多大な刺激を得た。
12. 塚本昌則編『写真と文学----何がイメージの価値を決めるのか』,平凡社,2013.
フォトテクストをひとつの典型とする写真(イメージ)と文学(文字テクスト)との関係をめぐる論文集。『アウステルリッツ』にも触れている塚本「時のゆがみ」と、現代フランスの小説が写真を使用「しない」点に注目する野崎歓「写真への抵抗」がとくに示唆的である。
13. ローラン・ビネ『HHhH----プラハ,1942年』,高橋啓訳,東京創元社,2013.
プラハにおけるナチ高官ハイドリヒの暗殺事件をめぐる小説。その描写法には「サスペンスとしての歴史叙述」の技法を読み取ることができる。
14. ソール・フリードランダー編『アウシュヴィッツと表象の限界』,上村忠男・小沢弘明・岩崎稔訳,未來社,1994.
どのようにすればホロコーストを適切に叙述しうるかをめぐるヘイドン・ホワイトの論文「歴史のプロット化と真実の問題」、および、カルロ・ギンズブルグによるホワイト批判の論考を所収。しかし、もっとも印象に残るのは、編者がこの論文集の序文末尾に引用している或る小さな事件の記録である。
15. 三部けい『僕だけがいない街』1〜8巻,角川書店,2013-2016(8巻は近刊).
アニメ化、映画化もされたこのサスペンス漫画の主人公は、作中で「リバイバル」と呼ばれる超能力をもち、過去に遡って、出来事を変えることができる。連続児童殺害事件の被害者となった小学生時代の級友たちをこの能力によって救おうとする主人公の行為は、一種の「歴史の逆撫で」(ベンヤミン)にほかならない。
16. パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』,白井成雄訳,作品社,1998.
ノーベル文学賞受賞作家モディアノは古い新聞に尋ね人広告を見つけ、その広告のユダヤ人少女ドラ・ブリュデールと彼女の一家について長期間の調査に携わる。本書はその探索の記録であり、そこには作家自身の自伝的回想も交えられている。ゼーバルトの言う「復元」としての文学の優れた達成。
17. 畠山直哉『気仙川』,河出書房新社,2012.
東日本大震災による津波で大きな被害を受けた故郷の、震災前と震災後の写真からなる写真集。母の安否をなかなか確認できぬまま現地へと向かう過程を叙述した、「気仙川へ」という著者のテクストのうちには、危機的状況下における切迫した時間の経験が凝縮されている。
18. ヴァルター・ベンヤミン『図説  写真小史』,久保哲司編訳,ちくま学芸文庫,1998.
写真というメディアはベンヤミンにとって、歴史認識の構造を探る実験装置にも似たものだった。本書に収められた写真論は、彼の歴史哲学における「歴史の逆撫で」に対応する「写真の逆撫で」──過去の光景のなかに未決定の未来を見ること──のために書かれている。
19. ヴァルター・ベンヤミン『[新訳・評注]歴史の概念について』,鹿島徹訳・評注,未來社,2015.
ベンヤミンの遺稿「歴史の概念について」は周到きわまりないこの新訳と評注によって姿を一新した。それにより、ベンヤミンが当時抱いていた危機感もまた、間近に迫るのを感じる。『過去に触れる』結論の十のテーゼは、言うまでもなく、このテクストへのささやかな応答である。
20. 平野嘉彦『死のミメーシス----ベンヤミンとゲオルゲ・クライス』,岩波書店,2010.
若き日のベンヤミンとその友人たちは詩人シュテファン・ゲオルゲの熱狂的なファンだった。しかし、その「世代」は「あらかじめ死を定められていた」と彼はのちに書くことになる。ベンヤミンとゲオルゲおよびその周辺の崇拝者たちとの関係を論じた本書は、そんな詩の経験の実相と帰結を教えてくれる。
21. マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』,金子遊・井上里・水野友美子訳,水声社,2016.
タウシグが文化人類学に導入しようとしているのは、いわば「私記」の手法と言えるのではないだろうか。それはときにフィクションにも近づく。書名にもなっているスペイン国境ポルボウにあるベンヤミンの墓標の訪問記は、過去と現在、彼方と此方を貫くように語る、そうした話法の精華である。
22. 多木浩二『映像の歴史哲学』,今福龍太編,みすず書房,2013.
この思想家が晩年に行なった講義の記録であり、珍しく自伝的な事柄も多く語られていて、その思想の背後に潜む生理をうかがわせている。序文にあたる「歴史の天使」の断章には、写真と歴史をめぐる著者の深い思索が詩的散文として結晶化している。

番外
磯崎新監修・田中純編『磯崎新の革命遊戯』,TOTO出版,1996.
田中純『都市表象分析I』,INAX出版,2000.
田中純『死者たちの都市へ』,青土社,2004.
田中純『都市の詩学----場所の記憶と徴候』,東京大学出版会,2007.
田中純『政治の美学----権力と表象』,東京大学出版会,2008.
田中純『イメージの自然史----天使から貝殻まで』,羽鳥書店,2010.
田中純,伊藤博明,加藤哲弘,アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』,ありな書房,2012. 

『過去に触れる』関連書籍リスト

日本語の書籍で比較的容易に入手できるもの(一部絶版あり)に限定したリストです。

1. 堀田善衞『方丈記私記』,ちくま文庫,1988.
2. 田中純『アビ・ヴァールブルク 記憶の迷宮』,青土社,2001;新装版,2011.
3. 田中純『冥府の建築家----ジルベール・クラヴェル伝』,みすず書房,2012.
4. 中島岳志編『橋川文三セレクション』,岩波書店,2011.
5. 宮嶋繁明『橋川文三 日本浪曼派の精神』,弦書房,2014.
6. ジョルジュ・ディディ=ユベルマン『イメージ、それでもなお----アウシュヴィッツからもぎ取られた四枚の写真』,橋本一径訳,平凡社,2006.
7. 『photographers' gallery press』no.12「爆心地の写真 1945-1952」,photographers' gallery,2014.
8. W・G・ゼーバルト『アウステルリッツ』(改訳),鈴木仁子訳,白水社,2012.
9. W・G・ゼーバルト『カンポ・サント』,鈴木仁子訳,白水社,2011.
10. ロラン・バルト『明るい部屋----写真についての覚え書き』,花輪光訳,みすず書房,1985.
11. 三浦哲哉『サスペンス映画史』,みすず書房,2012. 
12. 塚本昌則編『写真と文学----何がイメージの価値を決めるのか』,平凡社,2013.
13. ローラン・ビネ『HHhH----プラハ,1942年』,高橋啓訳,東京創元社,2013.
14. ソール・フリードランダー編『アウシュヴィッツと表象の限界』,上村忠男・小沢弘明・岩崎稔訳,未來社,1994.
15. 三部けい『僕だけがいない街』1〜8巻,角川書店,2013-2016(8巻は近刊).
16. パトリック・モディアノ『1941年。パリの尋ね人』,白井成雄訳,作品社,1998.
17. 畠山直哉『気仙川』,河出書房新社,2012.
18. ヴァルター・ベンヤミン『図説  写真小史』,久保哲司編訳,ちくま学芸文庫,1998.
19. ヴァルター・ベンヤミン『[新訳・評注]歴史の概念について』,鹿島徹訳・評注,未來社,2015.
20. 平野嘉彦『死のミメーシス----ベンヤミンとゲオルゲ・クライス』,岩波書店,2010.
21. マイケル・タウシグ『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』,金子遊・井上里・水野友美子訳,水声社,2016.
22. 多木浩二『映像の歴史哲学』,今福龍太編,みすず書房,2013.

番外
磯崎新監修・田中純編『磯崎新の革命遊戯』,TOTO出版,1996.
田中純『都市表象分析I』,INAX出版,2000.
田中純『死者たちの都市へ』,青土社,2004.
田中純『都市の詩学----場所の記憶と徴候』,東京大学出版会,2007.
田中純『政治の美学----権力と表象』,東京大学出版会,2008.
田中純『イメージの自然史----天使から貝殻まで』,羽鳥書店,2010.
田中純,伊藤博明,加藤哲弘,アビ・ヴァールブルク『ムネモシュネ・アトラス』,ありな書房,2012. 


拙著『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』が刊行されました。書誌情報は
田中純『過去に触れる──歴史経験・写真・サスペンス』、羽鳥書店、2016年、総ページ数620頁。
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目次などは出版社のサイトを参照してください。

著者によるガイド的なことを記すとすれば、「はじめに」では本書の構成全体を手短かに解説しています。「序」の4つある章は2011年3月以降の数カ月以内に書かれた短い文章を集め、東日本大震災の経験を本書のテーマへの入り口としています。第I部第1章は歴史の理論篇として「歴史経験」をめぐる各種の理論を扱い、同第2章は拙著『冥府の建築家』の主人公であるジルベール・クラヴェルの謎の恋人「アーシア」を探す過程を通して、「過去に触れる」プロセスを描いています。以降の本論部分で取り上げた対象の多くはそれぞれの章のサブタイトルで示している通りです。すでに部分的には発表したものを多く含む、エッセイの集成ではあるのですが、一冊の書物にまとめるうえで前後の関係には十分に配慮し、全体を緊密に関連づけています。いくつかのエッセイは、そうした関連性を高める観点から書き下ろしました。
しかし、本書はどの章から読み始めてもらってもかまわないと考えています。望むべくは、いわば前後左右にさまようように読み進めてもらい、最終的に結論のテーゼで全体像がつかめればよい、と。あるいは逆に、それぞれのテーゼに付した関連する章番号の案内に沿って本論を読む、という読み方もありうるでしょう。

BABYMETALに「懐かしい明日」を聴く

特集号にエッセイを寄稿しました。書誌情報は
田中純「BABYMETALに「懐かしい明日」を聴く──「ロックの幼年時代」について」、『別冊カドカワ DIRECT 04 BABYMETAL』、KADOKAWA、2016年、52〜53頁。
ボウイの「晩年様式」をめぐるテクストと対になる文章です。
「神経系人文学」特集号「思想の言葉」に寄稿しました。書誌情報は
田中純「総合的身体論へ──神経系人文学の制度的条件と未来」、『思想』第1104号(2016年4月号)、岩波書店、2016年、2〜5頁。
デヴィッド・ボウイ特集に寄稿しました。書誌情報は
田中純「★の徴しのもとに──デヴィッド・ボウイの「晩年様式(レイト・スタイル)」」、『ユリイカ』第48巻第6号(2016年4月号)、青土社、2016年、90〜94頁。

モンタージュ/パラタクシス(1)

『UP』3月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第43回です。
書誌情報は 田中純「モンタージュ/パラタクシス(1)──イメージによる歴史叙述の「リアリズム」」、『UP』521号(2016年3月号)、東京大学出版会、2016年、47〜52頁。
追悼文を寄稿しました。書誌情報は
田中純「ロックの晩年様式(レイト・スタイル)──デヴィッド★ボウイ追悼」、『図書』805号(2016年3月号)、岩波書店、2016年、28〜33頁。
論文を寄稿しました。書誌情報は
Jun Tanaka, Dystopian Visions and Ideas of Death as A Transformation in Gilbert Clavel's An Institute for Suicide. In: David Ayers, Benedikt Hjartarson, Tomi Huttunen and Harri Veivo (eds.), Utopia. The Avant-Garde, Modernism and (Im)possible Life. Berlin and Boston: Walter de Gruyter, 2015, 493-502.

謹賀新年

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田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

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